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電子足跡:旧山陽道歩き旅 塩屋から曽根 日本標準時 東経135度子午線を越す道


プロローグ

このページは旧山陽道(西国街道)を明石海峡の塩屋駅から明石宿、大久保宿、加古川宿を通り姫路の手前 曽根駅まで歩いたページです。
昨日、敦盛塚付近で 摂津国・播磨国境を越えたので今日から播磨国を歩きます。

塩屋から西に向かって歩くと、海に境目は無いですけれど、大阪湾から瀬戸内海に入ったという感じがします。
この道は何と言っても、日本標準時を決める 東経135度子午線 が通る明石市を通ることです。東経135度子午線が通る場所には、旧山陽道脇に明治時代に建てられた『大日本中央標準時子午線通過地識標』の石柱が建っています。
小学生の時 日本標準時 東経135度子午線 を習って以来、明石市は一度は訪れたかった場所です。ようやく来ることが出来ました。

勿論、建築物が好きな方は瀬戸内海に浮かぶ明石大橋の雄大な姿を見る事もできますし、城好きであれば明石城を訪ねることが出来ます。食べ物は ”明石の鯛”や”明石焼き” もあります。いろいろなエッセンスが詰まった街です。

そして、個人的な事ですが、もうひとつの目的は、このホームページを通じて知り合った明石市在住の 『Be a man!』 こと藤本明生さんに再会する事でした。

都道
府県
区間  通る宿場等 歩いた日 GPS
移動距離
備考
兵庫 塩屋駅-大久保駅 明石海峡大橋、東経135度子午線、明石宿、大久保宿 2021/10/18 17.6km
兵庫 大久保駅-曽根駅 邑美駅家跡(古代宿駅)、加古川宿 2021/10/19 21.0km  



↑GoogleMapと地理院地図にGPSログと写真がマッピングされた地図が開きます GPSログをGoogleEarthでツアーする方法
旧山陽道ルート地図 塩屋から明石を通り曽根へ
カシミール3D  国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)



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Be a man! 藤本明生さん
藤本明生さんは明石市にお住まいで、土地家屋調査の事務所を構えている方です。
今回、旧山陽道を歩き、明石市を通るので事務所を訪れました。

藤本さんとは私のホームページを通じて知り合いました。
藤本さんからメールが届いて一度私の話しを聞きたいという事でした。偶然藤本さんの息子さんが新潟県でお仕事をされている事もあって、お子さんに会う傍ら私と会う事になりました。

会ってお話を伺うと、藤本さんのモットーは『夢を持ってチャレンジする事』という事で、驚いた事に、若い時に思い描いた世界7大陸でギターを抱えて自作の歌 『Be a man!』 を熱唱する。を体現した方でした。
更に驚いた事は、単に飛行機で7大陸に行って歌を歌った訳ではなく、アフリカ大陸ではキリマンジャロに登って歌い、2020年2月27日に最後の大陸、南極大陸で『Be a man!』を熱唱して、若い時からの夢をかなえました。
更に、モットーの『夢を持ってチャレンジする事』を若い人達に伝える為に、講演をしたり、本を出版していたり、勿論本業のお仕事もしてマルチに活動していている事が分かり、なんとパワフルな方なのかと驚きました。

下の映像は藤本さんが兵庫県のサンテレビに出演した時の映像です。
(音量注意! 音声・音楽が流れます)


ステージは地球! 子午線上のアリア?

何故、藤本さんが私のホームページに興味を持ったのかという事なのですが、世界七大陸で熱唱し若い頃からの夢を叶えたので、次はどうするか?と考えた時に七大陸は行ったけれど、足元の日本はあまり知らないという事に気づいて、日本を歩いて旅をする事を思いついたそうです。それでインターネットを検索したら私のホームページがヒットしたとの事です。

”明生”というお名前なのですが、”明石に生れた”という事で命名されたそうです。ですので明石に愛着を持っておられて、明石といえば東経135度子午線なので、ギターを抱えて東経135度線に沿って歩きながらオリジナル曲『子午線を歩いてく』を歌う。それも、各地の135度子午線のモニュメントを訪ね、中国山地の山の中に続く道をギターとテントを担いで、ホテル・旅館が無い山の中はテント泊というハードな歩き旅。
さらに、明石市から最南端の 友が島 へは、なんとクルーザーを使い、東経135度子午線上の海上を南下して 友が島 へ行ったと言うこだわりようです。

”G線上のアリア”ならぬ ”子午線上のアリア” あるいは ”子午線上のながし” と言ったら良いのか、地球をステージにした、なんともユニークな事を発想し実行しました。

まずは東経135度子午線上で熱唱した オリジナル曲 『子午線を歩いてく』 をお聞きください。

(音量注意!)

「子午線」を歩いてく  作詞・作曲 藤本明生
この映像は明石市の事務所に伺った時に撮影させて頂きました。

歌詞・コードはこちら


以下は 藤本さんの東経135度子午線歩き旅の概要です。




藤本明生さんについてもっと知りたい方は藤本さんのホームページ・著書をご覧ください。

藤本明生さんのホームページへ

藤本さんの著書
『アフリカ キリマンジャロでギター弾き語り』
私も読まさせて頂きました。
世界7大陸でオリジナル曲 『Be a man!』 を弾き語りで歌う!という若い頃に思い描いた夢、そして一度は挫折した夢を、何故50歳を過ぎて再び挑戦する事にしたのか?キリマンジャロに登る為の身体とギターの準備、登攀中のエピソード、そしてキリマンジャロ山頂で『Be a man!』を熱唱。写真・イラストがふんだん挿入され、平易な文章ですが、かなりな熱量を持って書かれています。
この本は若い方達が読んで夢・目標に向かって行動する事の大切さを読み取る事も出来ますが、読後、私は人生も折り返し点を過ぎた私の様な世代が読むべき本ではないかと感じました。

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明石宿

ここからは私の歩き旅の話です。

『五街道細見』(岸井良衛 青蛙房)の明石のところには 名物:鯛・蛎・乾蛸・干魚 と書いてあるので昔から海産物 とりわけ鯛や蛸は有名だったのだと思います。
私は旧街道を歩きますが、特別その土地の名物を食べたいと思う方ではないのですが、明石の鯛だけは食べようと決めていました。

明石海峡大橋

これまで、東京湾のレインボーブリッジや横浜ベイブリッジを見た事はありますが、明石海峡大橋はそれらの橋と印象が異なります。
前記の橋は都会の高層ビルや高速道路などの大きな構造物の中のひとつの構成要素という印象ですが、明石海峡大橋は自然の中に一つだけ存在する巨大な人工物で、よりその大きさが強調されます。「よく、こんな大きな物を作ったな~!」というのが第一印象でした。そして、フォルムが美しく、海と空の青色の中に真っ白く輝く姿は、健康的で大らかな女性の様な美しさを感じました。
例えて言えばレインボーブリッジ、ベイブリッジは ”オーケストラをバックにした合唱” の様な美しさ。明石海峡大橋は、白いドレスを着て ”魅せられて” を歌うジュディ・オングの様な美しさという感じでしょうか。 
・・・我ながら、例える歌が古い。





日本標準時 東経135度子午線

小学校6年生だったと思います。授業で ”太陽の南中”(太陽が真南に来る)という事を習って、『日本標準時は東経135度子午線上で太陽が南中した時が日本全国の正午である。そして東経135度子午線は明石市を通っていて、そこには天文台があって天体を観測している。天体観測する事で1日が24時間という事が分かり、1年が365日という事も分かる。』 と先生が話したときに、明石市から時間が湧き出している様なイメージが頭に浮かび、なんとも不思議な感覚に包まれ、いつかそこに行って見たいと子供心に思いました。それから随分と時間が経ちましたが、ようやくその地を訪れる事ができました。

明石市立天文科学館
小学6年生の時に先生から聞いた天文台が見えてきました。
小学6年生の時から随分と時が経ち、現在は原子時計で測定した時間を使っているので、天文観測で時刻を決めるという役割は終わっていますが、東経135度線上の時刻が日本全国の時刻である事に変わりはなく、日本の特別な場所という感覚は変わりません。


東経135度子午線を日本標準時の子午線とする事が決まったのは、明治19年勅令第51号「本初子午線経度計算方及標準時ノ件」(1886年)で定められました。
私が歩いた2021年はそれから135年後、奇しくも東経135度と同じ並びの数字の年でした。
何故、東経135度を日本標準時子午線にしたのかについては、経度15度で1時間時刻が変わるので、イギリスのグリニッジ天文台を通る子午線から15度の倍数である135度線が通る場所を標準時にすると9時間の時差になるので切が良いという理由です。

大日本中央標準時子午線通過地識標
旧山陽道(西国街道)が明石宿に入ろうとする枡形の様な曲がり角 明石市天文町2丁目2 大蔵交番の隣に建っています。説明版によると、日本標準時子午線が明石を通過している事の重要性に気づいた明石郡小学校の先生達が給料を出し合って明治43年(1910年)に設置したとの事です。




現在の東経135度子午線について
小学生の時から一度は訪れたいと願っていた東経135度子午線。
ようやく ”日本標準時 子午線通過地”の標柱を訪れて思いが叶ったと思うのは、残念ながら早計です。
現在の東経135度子午線は、上記の標柱から110m程西に行っ所を通っています。
私も詳しい訳ではないのですが、子午線の位置が変わったのは、測地系(座標)が変わった為です。地球は自転による遠心力で赤道に近くなるほど膨らんでおり、完全な球体ではなく、極端に言えば丸みを帯びたそろばん玉の様な形をしています。地図を作る時はモデルとする楕円体の扁平率によって経度・緯度の測地系(座標系)が変わります。明治の頃は日本独自の測地系を使っていてもそれ程困る事はなかったと思いますが、GPSが発達すると世界標準に準拠した測地系にする必要があり、現在はWGS84という測地系が使われています。
その為に東経135度子午線が現在の位置に変わりました。

世界測地系(WGS84)における東経135度子午線の標識
神戸地方検察庁明石支部付近  左の写真、青矢印の所が東経135度子午線が通る標識です。 正直に言いますが、”しょぼい”。


旧測地系と現在の測地系(WGS84)の東経135度子午線の位置


東経135度子午線測定
下のスクリーンショットは上記の”しょぼい”東経135度子午線の表示板の所で撮ったスクリーンショットです。ピッタリ東経135度を表示しています。
と言ってもGPSの測定値は多少の誤差があるので、135度を表示するまで表示板の所を東西に数m何回も行ったり来たりして数分かけて、ピッタリ135度になった所でスクショをとりました。
もし近所でその時、数分間ウロウロしている私を見かけた方がいらしたら、けして怪しい親父ではなく、ひたすら東経135度子午線にこだわっていた私です



明石市立天文科学館
歩いた後に訪れました。東経135度子午線の表示があり、子午線上に 漏刻 が復元されています。


子午線上に設置された漏刻
説明版に書かれていた事ですが、
6月10日は時の記念日ですが、これは天智天皇が671年6月10日に人々に時を知らせたことに由来しています。
その時に使われた時計が漏刻で水時計の一種です。上の水槽から順番に細い管で繋がれていて、一番下の水槽の水面の上昇で時刻をはかる装置です。
日本標準時子午線上で時を刻んでいます。

話は変わりますが、仕事を辞めたとき一番良かったと思った事は、朝決まった時間に起きなくてもよい、会議の日時や仕事の納期を気にしなくても良い、という事でした。自分の体のリズムで生活できる事がこんなにもストレスを感じないという事を再認識しました。
更に思い出したのですが、ギリシャ神話の”時の神クロノス”は自分で産んだ子供を次々に喰い殺していく神でした。全知全能の神ゼウスは産まれるやいなや、クロノスの頭に飛び乗り喰い殺されず、クロノスと共に生きていく事が出来たという神話です。人間も宇宙も含め全ての物は時間の流れの中に存在しているという示唆に富んだ神話です。

明石市立天文科学館はプラネタリウムがあり、時に関する展示があり、展望台からは歩いた街中は勿論、明石海峡、明石海峡大橋、淡路島を望む事ができます。


明石市立天文科学館のホームページへ

”明石の鯛”を頂きました

明石市街に入ったら昼時でした。市内の魚の棚商店街に在る ”あかし多幸” というお店で 鯛茶漬を頂きました。
鯛を食べる事はあまりないので、他の海の鯛と比較は出来ないのですが、心なしか身が締まっていると感じる歯ごたえでした。美味しかったです。


大久保宿

大久保宿は正式な宿場ではなく間の宿だったのかもしれません。
『五街道細見』(岸井良衛 青蛙房)には明石-大久保-加古川と宿場として書かれていますが、『太陽コレクション 京都・大阪・山陽道』(平凡社)には 大久保に本陣跡があるも、正式な本陣ではなく茶屋本陣(大名などが宿泊はせずに休憩する本陣)だったらしいと記載されています。

当時宿場の中心地だったと思われる道筋には、それらしい塀が続いていたり、重厚な感じの家屋が建っていたり何処となく宿場だった雰囲気を感じます。
他の方達のホームページを見ると、この塀がある家が本陣であると記載されています。


今日は大久保駅まで歩いて行動は終わりです。

海食崖の上の道

日にちは変わって大久保駅からスタートです。
駅から少し歩くと富士通の大きな工場があります。本来の旧山陽道は工場南側の敷地内を通っていましたが、敷地内は歩けないので国道2号線を進みます。
富士通の工場を過ぎた付近から少し登り坂になります。
地形図をみるとこの付近から加古川付近まで海食崖のうえの台地に道が続いています。
台地なので大きな川がなく、地図を見ても溜池がかなり多いです。昔の人達が苦労して農業を営んできた土地なのだろうなと感じます。
そして風景も変わり始めます。京都からズット家並みが続く道を歩いてきましたが、この付近からは田畑が見える様になってきます。



古代山陽道と邑美駅家(おうみのうまや)
なんて事のない道の脇に説明版が建っています。ここが邑美駅家跡だったと書いてあります。古代山陽道に設けられた、馬の乗り継ぎや宿泊・迎賓の為の施設です。
7世紀後半には、既に今とほぼ同じ場所に古代山陽道が通っていて、遣唐使が通って大陸に渡っていたと考えると悠久の時間を感じます。現在はキャベツ畑が広がっています。




河岸段丘の道
住所でいうと明石市魚住町清水付近の風景です。
自転車を漕いで登れないくらい急な坂道です。この地形は瀬戸川と清水川が削った河岸段丘に続く道です。道を歩いていて地形を感じると、自分が地球の一部に取り込まれて歩いている様な感覚になります。



土山駅付近から加古川宿手前の風景

海食崖といっても、海からはかなりなだらかな傾斜の上の台地に道が続いています。
旧街道を歩くと路傍に石仏や供養塔などがある事が多いですが、この道は随分と大きな宝篋印塔や五輪塔がありました。

写真左:清水新田 宝篋印塔 江戸時代後期に建立
 行き倒れになった旅人を供養する為に建立されたと伝わっているそうです。
写真右:説明版が無くて分かりませんが、
 比較的新しいお地蔵様と風化が進んだ”だるま大師”の様に見えます。


写真左:平岡町土山付近
写真右:平岡町高畑付近


写真左:平岡町西谷 国道2号線を斜め右に入って旧山陽道です。
写真右:五輪塔 東加古川駅付近 室町時代初期に建立されたと言われています。


東加古川駅から北西500m位の所は再開発されて、大きな商業施設と高層アパートが建っていました。道筋は消えていますが敷地内を歩く事が出来ました。


写真左:野口神社
写真右:宝篋印塔 大きく完全な形で保存されています。
 和泉式部の墓という言い伝えがあるそうです。


加古川宿

加古川宿は加古川沿いの宿場で、河口の”高砂浦”は播州米の積出で賑わい、更に加古川の水運で内陸の物流でも栄えた宿場です。河口の地名は現在でも”高砂町”です。
”高砂”と聞くと思い起こす事があります。お祝いの席で謡われる 『高砂や この浦船に帆を上げて・・・』 の高砂です。
”高砂浦”と謡曲の『高砂』が関係あるのか調べてみました。

歌詞は以下の通りです
 高砂や この浦船に帆を上げて
 月もろ共に出汐(いでしお)の
 波の淡路の島影や
 遠く鳴尾の沖こえて
 はや住の江につきにけり
 はや住の江につきにけり


意味は
 播磨国の高砂で、浦に泊めた船の帆を上げる。
 月と共に満ちる潮、波の淡路の島影を通り、
 遠ざかる鳴尾(なるお)の沖を過ぎて、
 早くも住之江に着いた。

という事で
『高砂や この浦船に帆を上げて・・・』の”高砂”は、まさに播磨の高砂浦の事です。
この謡曲が何故めでたい席で謡われるのかは、能の演目に関係しているのですが、長くなるので省略します。

注:上記はホームページ 『世界の民謡・童謡』 を参考にさせて頂きました。

胴切れの地蔵
めでたい『高砂』の後に ”胴切れ地蔵” という物騒な話で恐縮です。
加古川の市街地にあるお地蔵様です。
このお地蔵様を信仰していた人が、うっかり殿様の行列の前を横切った為に、無礼打ちにあい、胴体を真っ二つに切られてしまいました。ところが、気が付くと自分の胴体ななんともなく、お地蔵様の胴が真っ二つになっていて、お地蔵さんが身代わりになってくれた。という言い伝えがあるお地蔵様です。

加古川市街
市街はあまり宿場町という感じはしませんが、それでも旧家が残っていたり、商店街の名前が ”じけまち商店街”(寺家町)だったり、宿場町だった頃の痕跡があります。


加古川昔は舟渡でした。
見えている橋は山陽本線の鉄橋です。

石の宝殿 竜山石産地 古墳の石棺の材料!

山陽本線の宝殿駅前を歩いていたら、三叉路になって、真っすぐに続いている道がありました。よく見ると道標があって 『左石宝殿』 と書かれています。
地図を確認すると、道の先は 生石(おうしこ)神社 に向かっています。
御神体は四角く切り出された大きな石で『石の宝殿』と言われています。
この地は古来からの石切り場で、竜山石の産地として知られ、古墳の石棺や石橋の材料として使われたとの事です。古墳時代から現在まで採石が続けられて2014年に「石の宝殿及び竜山石採石遺跡」として国の史跡に指定されました。

生石神社 「石の宝殿」のページはこちら



加古川橋から見た、生石・竜山方面

この風景は太古の風景
更に、進むと、山が削られ岩肌が露出している山が見えました。おそらく竜山石と同じ岩石だと思います。

竜山や写真の山を産総研の地質図Naviで地質を調べると、
 形成時代: 中生代後期白亜紀
 岩石: デイサイト・流紋岩・大規模火砕流
と書いてあります。
中生代後期白亜紀は約1億4,500万年前から6,600万年前です。この地質は付近一帯にかなり広く分布しています。
日本列島は6000~5000万年前はまだユーラシア大陸の一部で3000万年位前から大陸から分離し始めたと言われているので、今、目の前に見えている岩石は日本がまだ大陸の一部だった頃に形成された岩石を見ている事になります。
そう思って見ると、見えている普通の禿山は、悠久の時を経て、今、目の前にある訳で神殿を見るような神々しささえ感じます。
(注:日本列島が大陸から分離した年代は資料によってバラツキがあります。)


阿弥陀町魚橋付近

『五街道細見』には 魚橋村は ”立場” ”本陣” と書いてあります。立場は宿場と宿場の間で駕籠かき・人足が休憩した場所です。本陣もあったと書かれているので立場というより宿場の機能も有している村だったのではないかと思います。
明治になると印南郡役所も置かれているので、賑わっていた村だったのだと思います。

阿弥陀町魚橋の家並み


写真左:旧魚橋郵便局
写真右:旧印南郡役所写真


旧街道を歩いていると、いつもは腰が曲がったお婆さんが道を横切って行くくらいなのですが、ちょうど下校時だったので大勢の小学生が元気な声で挨拶しながら歩いて行きました。
元気な子供達の姿を見ると明るい未来を感じます。

石造五輪塔・石仏
曽根駅付近の石垣で少し小高くなった場所にありました。
五輪塔は南北朝時代 暦応5年(1342年)に建立されました。
石仏は室町時代後期 永正4年(1507年)に建立。
ともに、今歩いてきた前述の竜山石で出来ています。




曽根駅
今日はJR山陽本線 曽根駅まで歩いて行動は終わりです。

エピローグ

冒頭に書いた様に、小学生の頃に聞いた 東経135度子午線をこの歳になってようやく訪れる事が出来ました。
小学生の時、あの先生が担任になり、東経135度子午線の話を興味深く話していなければ、こんなに歳をとるまで覚えていなかったと思います。そして偶然にも明石で生まれ、明石で育った パワフルな藤本明生さんと知り合って、色々なお話を伺って刺激されて、何故か身体と心が軽くなるような解放感を感じました。
藤本さんがおしゃる様に、夢を持ってチャレンジする事、今の私にとっては時速4~5㎞くらいでゆっくり歩いて旅をする事がチャレンジと言えばチャレンジなのですが、歩いてホームページを作っていなければ、藤本さんと出合う事は無かった訳ですし、刺激されて身体と心が軽くなるような解放感を得る事も無かった訳です。
『人生は邂逅である。』とは亀井勝一郎の言葉ですが、人と出合う事の大切さと楽しさを感じた旅でした。


END 

2022年02月25日 作成

Column


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