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電子足跡:旧山陽道(西国街道)歩き旅
安芸中野から玖波宿へ
そして広島を通る道
プロローグ
このページは旧山陽道(西国街道)を安芸中野から広島城下を通り玖波宿まで歩いたページです。この区間は基本的には瀬戸内海の沿岸部に続く道ですが、広島市の大きな都市の中を歩き、山間の道になったり、かと思うと直ぐ目の前が海だったりと変化に富んだ道です。
そして,旧山陽道は広島市内では原爆ドームのすぐ隣を通っていました。
写真やTVで何度も見たことがある原爆ドームですが、原爆ドームを目の前にすると、言葉では表現出来ない複雑で哀しい気持ちが渦巻ました。
廿日市を過ぎた付近からは山の麓に道が続いています。
対岸は厳島神社が鎮座する厳島(宮島)で街道筋から厳島が見える区間が有ります。
その途中に吉田松陰が名付けた 三県一望の地 と言われる風景明媚な場所があり、江戸に護送されるときに 三県一望の地 にある岩に腰掛け、故郷に別れを告げました。
都道 府県 |
区間 | 通る宿場等 | 歩いた日 | GPS 移動距離 |
広島 | 安芸中野駅-JR廿日市駅 | 海田宿、広島城下、原爆ドーム、廿日市宿 | 2021/12/01 | 27.5㎞ |
広島 | JR廿日市駅-玖波駅 | 廿日市宿、三県一望の地、玖波宿 | 2021/12/02 | 18.1㎞ |
↑GoogleMapと地理院地図にGPSログと写真がマッピングされた地図が開きます | GPSログをGoogleEarthでツアーする方法 | |
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)
安芸中野
安芸中野駅からスタートです。”安芸”という文字を見ると、いま広島に居ると実感します。中野砂走の出迎えの松
瀬野川のほとりに道が続いています。江戸時代1633年幕府巡検使の視察を契機として領内の街道の整備が進められ、道幅2間半(約4.55m)に定められ、沿道に松・杉が植えられたとの事です。
当時は道幅2間半(約4.55m)でしたが、拡幅された所もあるようですが、歩いていて道が狭いと感じる所は幅が4~5mの感じでしたので当時から変わらない幅の部分も残っているようです。
何故、出迎えの松と言われているのかという事ですが、参勤交代を終えた藩主を家来や村の有志たちがこの松のあたりまで出迎えたという言い伝えに由来しているという事です。
土橋十間 砂走橋
五街道細見(岸井良衛 青蛙房)には中野村から羽高村に入る所に ”土橋10間” と書かれています。現在羽高村という地名は無いのですが、そばに ”畑賀(はたか)”という地名が見えます。瀬野川の支流に架かる現在の 砂走橋 が ”土橋10間” の橋なのではないかと思われます。
それにしても、江戸時代に書かれた街道の案内図などの記述が現在の道路と一致しているというのは驚きます。
海田宿
海田宿は現在の山陽本線海田市駅の北側に在った宿場です。千葉家住宅や三宅家住宅の古民家が残っていて新旧が混在した家並みです。千葉家住宅
構造が珍しいです、入母屋造りの様ですが切妻になっている二階の側面に窓がしつらえてあります。説明板には玄関は入母屋造り、座敷は数寄屋風書院造りと書かれています。無料で公開していましたが、時間が早くて見学出来ませんでした。
三宅家住宅
江戸時代後期から明治にかけて建てられた建物で農業を基盤としながら金融業などを営んでいたとの事です。
商売もしていたので通りに面して店を出せる構造の商家建築になっています。
日本人初金メダル 織田幹雄生誕地
オリンピックの年になるとときどき織田幹雄の名前を聞きます。昭和3年(1928年) 第9回オリンピック アムステルダム大会で三段跳びで優勝し、日本人初のオリンピック金メダリストになった方です。明治38年(1905年)この地で生れたそうです。
上記の千葉家住宅の裏側に織田幹雄スクエアという建物が在り、そこに織田幹雄記念館があるとの事です。
船越峠
広島城下へは船越峠を越えて入ります。五街道細見には船越村の所に ”比丘尼坂” ”有松坂”と書かれています。わざわざ坂の名前を書いたという事は当時はキツイ峠で、近年になって切通しにして峠を越え易くしたのかもしれません。
広島城下
旧山陽道(西国街道)は広島城下の中心部を通っていました。五街道細見(岸井良衛 青蛙房)の広島のところには猿猴橋、京橋、橋本、戎、などの地名が見えます、今でもその地名が残っています。
その場所で、赤ん坊が生まれ、育ち、学び、働き、怒り、泣き、笑い、恋をして、そして、また子供が生まれ、育ち、・・・・・・ 営々と続いてきました。
原爆ドーム
昭和20年8月6日(1945年)8時15分。この建物の上空600mで閃光が放たれ、灼熱の爆風が襲い、人類がその英知で手に入れたはずの人類史上最大のエネルギーが炸裂しました。そして人類史上最大の殺戮が行われました。
原爆ドームを前に、ただただ涙が溢れ、こらえようとしても、とめどなく涙が流れました。
被爆建物 鷺森神社
鷺森神社は爆心地から4.93km離れたところにあります。
『この社殿は、昭和20年(1945年)8月6日の原爆にも耐え、その姿を今日に残しています。』 と説明板に書かれていました。説明板には書かれていませんでしたが、壁が無いのは爆風で壁が破壊したのかもしれません。
草津地区
(株)小泉本店天保3年(1831年)に建てられた酒蔵で独特な雰囲気を持った建物です。
天保2年から酒造りを始めて現在でも厳島神社のお神酒を造っているそうです。
建物の入口に 厳島神社造酒所 清酒御幸醸造元 と書かれていました。
私は残念ながら御幸(みゆき)は飲んだ事がありません。
今日は 山陽本線廿日市駅まで歩いて行動は終わりです。
廿日市宿
日にちは変わり廿日市駅からスタートです。現在の廿日市宿は山陽本線の廿日市駅と広電廿日市駅のふたつの駅が在ります。
廿日市港が直ぐそばに在りますが街道筋から海を見る事は出来ませんでした。
廿日市宿は山陽道の宿場であると同時に北前船の寄港地でもあるので海運と陸運の両方で重要な宿場でした。
現在の廿日市の家並みは
駅を降りると、まず小高い丘の上に鎮座する天満宮が見えます。おそらく、かつて北前船は天満宮を目指して航行したのではないかと思います。
街の中は新旧が混在した不思議な感じがする家並みです。
中山地区付近
廿日市宿を離れると、旧山陽道は海岸線から離れ山沿いの道になります。この区間の瀬戸内海の対岸は厳島神社が鎮座する厳島(宮島)です。
この付近から厳島神社に渡る船の港までは直線距離で2㎞ほど、海を渡った厳島神社までは4㎞ほどの距離です。
その宮島が街道筋の家の向こうに少し見えました。
疣(イボ)観音堂と今川貞世の歌碑
同じ敷地内にあります。
弘法大師がこの地を旅しているときに、疣をたくさん持った人が通ったので、疣をとってあげたという伝説による観音様です。
説明板によると、今川貞世(号 了俊)が足利義満によって九州探題に任ぜられ、九州に下る途中に詠んだ歌とのことです。九州探題は室町幕府が九州統制の為に設けた役職です。
とにかくに しらぬ命を おもうかな わかみいそじに おおの中山
むかしたれ かげにもせんと まくしいの おおの中山 かくしげるらん
大野地区付近
大野地域付近から旧山陽道は麓の少し高い場所を通る様になります。それに伴い眺望も開け厳島(宮島)も良く見える様になります。
残念なのはこの場所からでは海越しに宮島が見えないので厳島が ”島” の様に見えない事です。
大野浦駅を越した辺りからは海を挟んで厳島が見える様になります。
海には牡蠣の養殖と思われるいかだが浮かび、陸にはミカンが実り、凪いだ海と、優しい陽光が差し込む、なんとのんびりとした穏やかな風景かと思います。
四十八坂・長坂
宮浜温泉付近から道は再び山の麓に向かい、国道2号線を越して山の中を進んで行きます。五街道細見には大野村から玖波の間に四十八坂・長坂と書かれているのでそれなりに険しい道なのだと分かります。そして、この区間は歩けましたが、地理院地図には一部道が描かれていない部分を通ります。
???残念な道???
旧山陽道が国道2号線にぶつかる所に道標があります。この場所を左に曲がるのですが、道標に残念社(西国街道)と書いてあります。西国街道は良いとして、 ”残念社” ってなに? と思いながら曲がりました。
さらに国道2号線を潜り抜けて山道に入ると、 ”残念さん” と書かれた道標がありました。
「これはいったい何の事? 実はこの道は行止りになっていて、行っても結局戻らないといけないので ”残念” という意味か?」 などと思いながら 歩いて行きました。
そうだとしても、「こんなユーモアのある道標を立てるかな?」「もしそうだとしたら、この道標を立てた人のユーモアのセンスはブラックだけどユニークなセンスだな。」などと思いながら歩きました。
この”残念な道” は地理院地図に描かれていないですが、途中石垣や石畳の痕跡などもあり、昔は良く整備された道だったのだろうなと思うに充分な、雰囲気がある冒険心を擽る道でした。
残念社
不安な気持ちを抱えながら歩いていましたが、ようやく全てが氷解しました。
”残念社”という社がありました。
残念社は慶応2年(1866年)7月9日 この道を西に向かって駆け抜ける武士がおり、長州軍は戦闘員と勘違いし、武士を狙撃してしまいました。その武士は『残念』と言って絶命しました。後にこの武士は丹後宮津藩士依田伴蔵で、軍使として長州軍営に赴く途中だったと判明しました。残念社は村人が伴蔵の死を悼んで祀った社との事です。
依田伴蔵遺詠
わすれめや 胡蝶の夢のつかのまも 花にやどりし 春のめぐみを
(以上 説明版より)
三県一望の地
残念社を過ぎ山間の道も終わる頃、美しい風景が待っていました。
目の前には瀬戸内海に横たわる厳島(宮島)が見え、安芸灘には可部島、甲島、阿多田島が浮かび、遠くには山口県の周防大島が見えます。天候によっては四国も見える事があるそうです。
吉田松陰 腰掛けの岩
三県一望の地で海から後ろを振り向くと大きな岩が目に入ります。
この岩は吉田松陰が江戸に護送される途中、この岩に腰掛けて、故郷の島である大島を望みながら父母の恩愛に感激をして、『この場こそ、三県一望の地である。』と故郷に別れを告げた場所と言われています。
親思う 心に勝る親心 今日のおとずれ 何と聞くらむ 松陰
三県一望の地を過ぎると、道は下り坂になり再び海岸に向かいます。
長い坂を下りきると安芸灘の海が広がっています。
玖波宿
玖波宿には 鉾の峠(ほこのたお) を越えて入ります。鳴川の石畳
この峠道には石畳が残っています。
石畳の道を通るとき、江戸時代の人達もこの同じ石を踏みしめて、この道を行きかったのだと思うと感慨深いものを感じます。
鉾の峠は中国山地の山塊が瀬戸内海に落ち込む ”岬” の様な地形です。現在は海岸に沿って国道2号線が通っていますが、かつては中国山地がそのまま海に落ち込む断崖の様な地形だったのではないかと思います。
旧山陽道は鉾の峠を越すと山陽本線のトンネルの上を通って、海岸線に出ます。
玖波宿の家並み
今日は玖波駅まで歩いて行動は終了です。
エピローグ
道の駅 スパ羅漢は良い道の駅でした
歩き終わったあと、小さな道の駅ですがスパ羅漢に行きました。
玖波駅からは30㎞ほど山の中に行かなければいけませんし、ロケーションも山の中にポツンとある在る感じの道の駅です。ですが、この道の駅は良かったです。
ひとつめは
なんと言っても日帰り温泉を併設していることです。日帰り温泉を併設している道の駅は他にも在りますが、この温泉は露天に ”打たせ湯” がありました。山間の涼しい風に吹かれながら打たせ湯に打たれていると、お湯がリズミカルに身体に当たって歩き旅の疲れを癒してくれました。
写真を掲載したいところですが、浴室にカメラを持ち込む事は出来ないので残念です。
ふたつめは
むしろこちらの理由の方が大きいのですが、トイレに掲載してあった注意書きの内容を読んだときです。
私だけの気持ちかも知れませんが、実は道の駅で車中泊するときは少々後ろめたい気持ちになります。
道の駅で車中泊する方達の一部にはマナーが悪い方もいるのは事実かもしれませんが、その一部の方達をもって車中泊する利用者全てのマナーが悪いかの様に思われるのは心外と感じていました。
道の駅 スパ羅漢でこの注意書きを読んだとき、ホットした気持ちになりました。
車中泊する利用者をことさら排除する訳ではなく、むしろその行為を後押ししていてくれる様な嬉しい文章でした。
実際、ペットボトルを持って水を頂きたいと女性スタッフの方に申し出たら、そのスタッフの女性は明るい声で『少々、お待ちください。』と言ってペットボトルを持って小走りに厨房の方に行き、水を持ってきてくれました。有難かったです。当日は本当にお世話になりました。機会があったらまたお邪魔したいです。
私が車中泊するときに心掛けている事を記載します。
1)混んでいる時間帯は避けて、夕方以後に道の駅に行き、朝は極力早く道の駅を出発する。
2)販売所やトイレなどからは離れた、なるべく他の利用者の邪魔にならない所に止める。
3)必要な物の購入(食べ物・飲み物が多いです)や、食事はなるべく道の駅で行う。
等々
END
2022年08月20日 作成
Column
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